庭の片隅に古い物置があります。毎日のように庭の手入れをしているのならば、用具やら肥料やらを頻繁に出し入れして、さぞ活躍しているのかと思いきやこの5年間扉は開かれたことがありませんでした。脇に植えてあるアイビーがいつのまにか這い上がり、封印するかのように完全に扉を塞いでしまいました。こまごました用具や重い肥料をわざわざ家の中から持ち出すのは時間も労力もかかります。それでも私はこの物置を使うことが出来なかったのです。
こちらに越してきた当時庭はひどく荒れていましたが、退院したばかりの夫は「リハビリには庭仕事が一番!」と意気揚々と大きなスコップや鍬などを買い込み、芝の種や小型の芝刈り機までそろえていきました。二人でガチガチの土を耕し、私が薔薇の苗木を植える横で夫は小さな野菜コーナーを作り、夏になると息子とプチトマトなどを嬉しそうに収穫していました。道具類だけでなく、息子が小さな時に喜ぶ顔見たさに買ってきた「かき氷機」や「アニメキャラクターのついた綿あめ機」「小さなバーベキューセット」など、もう出番が来るかもわからないのに「捨てられないでしょ~。」としっかりポリ袋にくるんで棚に並べていました。
見ないようにしても庭仕事をしていれば嫌でも物置は目に入ります。扉を開けなくてもそこにある品々の一つ一つが鮮明に記憶されているのです。それでもこの何年間自分の道具を出し入れするためだけにさえもこの物置を使うことが出来ずにいました。家の中にある亡くなった夫の持ち物や衣類は少しずつ片付けていったのですが、物置に並べられている、夫と息子と私の家族としての思い出が詰まった品々を目にしたら、やっと収まってきた胸の痛みがまたぶり返してしまうのではないかと怖かったのです。
今年は木々を少し強めに剪定したので初冬の庭はとてもすっきりとしました。ある日掃き出し窓から一緒に庭を眺めていた息子が、「あとは物置だけだな。」と言ったのです。私は一瞬動揺しましたが、「そうだね。もう開けないとね。」と小さく答えました。
翌朝起きてくると、早起きした息子は物置の中身をすべて外に出してしまっていました。封印アイビーにはてこずった・・とぼやいていましたが。「お母さんは棚拭いてくれる?土埃結構すごいよ。お父さんなんだか色々ととってあったね~。俺たちが使えない工具とかは処分だな。あ~この綿あめ作るやつ懐かしいな~。さすがにもう作んないだろ、捨てちまうか?」なんとあっさりとしたコメント。雑巾を片手におずおずと庭に降りた私は足元に広げられた思い出深い品々をそっと抱き上げました。胸が苦しくなることも、悲しくて涙が出ることもありませんでした。ただ懐かしく幸せな思い出だけが溢れて、それから何時間もかけて息子と二人にぎやかに片付けを続けました。
誰の心の奥にも自分が見ないようにしている物置のような部屋があるのかもしれません。その部屋にあるものが片付かない限り自分が軽やかになれないことがわかっているのに、鍵をかけて「無い」ものだと言い聞かせているようです。
その部屋にあるものをしっかりと見つめることが出来るようになるまでには時間がかかることもあるでしょう。天はベストなタイミングで誰かを、何かを気付きのきっかけとして送ってくださるんだなあと感じています。それでも腰は重いのです。準備は出来ているのに。あとは自分が腰を上げる決断をするだけです。このままでいたほうが今よりは苦しくならなくていいのではないか・・・自分の人生こんなもん、いちいち向き合うのも面倒くさい・・・そんなふうに思うのは恐れがあるからです。封じ込めた記憶と対面するのは怖いし楽しいことではないでしょう。けれど今回の人生を本来の軽やかな自分の姿で送りたいのであれば、無いことにしてしまった部分に対峙し、自らが開放しなければなりません。同じパターンを繰り返し、今いる場所にとどまっていますか?もう十分その苦く辛い感情を味わい尽くしたのではありませんか?「もういいよね・・・。」そう思えたら手放す準備は出来ています。思っているより扉は簡単に開くはずです。片付けには少し時間がかかるかもしれません。けれど少しずつ地道に何度でも方向修正をかけながら進んでいくと、開かずの部屋には爽やかな風が通り抜け、暖かな明るい光が射しこむでしょう。
マリアの庭は扉を開けるお手伝いの場です。ご自身の魂の声を信頼してどうぞお越しください。本来のご自分がどのような存在であったのかを思い出していく過程は、のちに振り返るときっと素晴らしい宝物となるはずです。
追伸:物置にしまわれていた家庭用綿あめ機は、夫の丁寧な(?)梱包のおかげか問題なく作動しました。グラニュー糖で出来た小さな小さな綿あめは甘く優しい思い出の味がしました。
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